「ただの怠け者なんだよ」パチンコと出会って東大中退…“伝説のパチプロ”は「バカ者、バカ者」と自分をののしった

「わたしが人生の悲哀をはじめて知ったのは、競馬場においてであった」。澁澤龍彦がそう記したのは「群衆のなかの孤独」と題したエッセイでのことであった。

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それをもじればパチンコは、「喧騒のなかの孤独」であろうか。

〈あのときの、成長や洗練から逆行するような快感は何ものにも代え難い〉。トリプルファイヤーのボーカル・吉田靖直は、朝からパチンコ屋にならび、台の前に座って玉を打ち出す瞬間をそのように言い表している(クイック・ジャパンウェブ、2020年5月12日配信)。

©moonmoon/イメージマート

「一発決まってしまうと、そのことをケロリと忘れる」  賭け事にひそむ退廃の魅力の極北は、パチンコなのかもしれない。

という前フリからの田山幸憲パチプロ日記』(白夜書房)シリーズだ。田山は官僚の家に生まれ東京大学に入るがパチンコと出会い、中退。以降、一時的に会社勤めをしてみたこともあるが、パチプロとして生きていく。本書は、彼が平成の初めに「パチンコ必勝ガイド」で連載した日記の書籍化である。

雑誌記事としての日記は、一般的には特筆することがある日だけを原稿にするのものだが、この連載はパチンコをするだけの一日を毎日書く。というのも掲載誌の編集長(末井昭)からの依頼が「三ヶ月間の日記を通しで書いてくださいよ。本にしたいんでネ」というものであったためだ。そして始まった連載は3ヶ月で終わることなく続き、書籍は10巻に及んだ。

代わり映えのない日々の反復を書くことで、ときに自分自身に倦む姿がそこに立ち現れる。

〈ハマっている最中は本当に自分が愚かしく思える。ゼニを使いながら、「バカ者、バカ者」と自分をののしっている。なのに、一発決まってしまうと、そのことをケロリと忘れる。ほんの一瞬の出来事が過去を水に流してしまう〉

パチンコに目覚め、専門誌の創刊にまで至った男  田山はパチンコで稼ぐことを仕事と呼ぶのは間違いだと断じる。仕事とは働くことであり、パチプロは遊んでいるのだと1986年に出した最初の著書の文庫化『パチプロけもの道』(幻冬舎アウトロー文庫)に記し、後年には〈ただの怠け者なんだよ〉と自嘲している。

人間の愚かさと向き合い、人の弱さにさいなまれる心情が、パチンコを打つ描写の合間にときおり入ってくる。これが人生に向けたアフォリズムのようであり、私小説のようでもある。現代の太宰治はパチンコ屋にいるのかもしれない。

パチンコしかできない人たちの味方になろう。そう思い立った編集者がいた。雑誌「パチンコ必勝ガイド」を創刊(1988年)する末井昭である。

彼の著書『パチプロ編集長』(光文社)に当時の回想がある。もともと〈パチンコを昼間っからやっているような堕落した「大衆」が嫌い〉だった彼は、編集長を務めるエロ雑誌が警視庁にわいせつ図画とみなされ発禁になると何もすることがなくなり、ぽっかりと心に穴が空いて魔が差したのか、それまで〈怖い場所〉だと思っていたパチンコ屋に入る。

そのとき末井は1800円ほど勝つ。会社の給料も銀行に振り込まれるようになるなど、カネを稼ぐことの実感が失われた時代に、彼はパチンコでそれを得た。するとそれまで〈堕落した人間〉のやることと思っていたパチンコに目覚め、来る日も来る日も打ちに行くようになり、さらには専門誌の創刊までしてしまうのだった。

〈社会から取り残されたような気持ちは、おそらくパチンコをやってる人なら誰でももっているのではないだろうか〉と末井は記す。冒頭のトリプルファイヤー・吉田の言葉と重なるものだ。

なぜパチンコを打つ人はパチンコ雑誌を買ってしまうのか  おまけに世間はパチンコに興じる人たちに冷たい。それどころか平気で「下層」とみなしさえする。階級の「断絶」を問題にするリベラルな者も、得てして不健全なものを許さない気質にあるため、断絶の向こう側にいるパチンコ愛好家を蔑視しがちだ。

たとえばコロナ禍の2020年、ステイホームの掛け声のもとで「巣ごもり」を楽しむ者がいる一方で、暇を持て余してパチンコ屋に向かった人たちもいる。彼ら/彼女らを良識で生きる人たちは徹底的に叩いた。相手は「パチンカス」である。叩けば共感が得られやすく、叩いても咎められることもない。

【遂に出来た取材】パチンコで稀に見る出来事起こしたったwww - YouTube

しかし末井は、断絶の向こう側に自ら入り込んだ。〈あんなにうるさかった騒音も、逆に気持ちいいものになってくる。できれば、ずっとここにいたいと思うようになる〉のであった。

パチンコ中毒者を自称する末井が創刊したパチンコ雑誌は売れに売れた。10万部で創刊し、後に50万部以上にまでなる。彼は当時を『100歳まで生きてどうするんですか?』(中央公論新社)のなかで次のように述懐している。

〈ぼくのようにパチンコがやめられなくなった人が、一日中パチンコを打ってしまい、気が付いたら閉店の時間になっていて、負けてとぼとぼと家路に向かっていたとします。「ああ、オレ、何やってんだろう」と思いながら、缶コーヒーを買いにコンビニに寄り、雑誌ラックを見ると『パチンコ必勝ガイド』という雑誌があったとしたら「それは買うでしょう」と思ったのでした〉

わかるようでわからない心性であるが、末井はこう続ける。

〈この説明では、なぜその人がパチンコ雑誌を買うかということを理解してもらえないかもしれませんが、パチンコを打つ人の「疚(やま)しさ、虚しさ、寂しさ」が、その雑誌で慰められるからです。マーケティングという抽象的なことではなく、パチンコを打つ人だけが感じているリアリティです〉

上記が含まれる章は「あるパチプロの死」と題されている。前述の田山幸憲の死について書いたものだ。田山は日記連載を続ける最中にガンに冒され手術を受け、治癒したと見なされる治療後5年を目前にそれが再発。〈時効寸前で逮捕される犯罪者の心境がよく分かる〉と『パチプロ日記』の最終巻に記し、翌年の盛夏、54歳で死去。「疚(やま)しさ、虚しさ、寂しさ」と向き合い続けた者の死であった。

棋士がギャンブルにのめり込む理由  羽生善治は将棋のみならずチェスプレイヤーとしても名高く、同じく棋士の鈴木大介は麻雀のMリーグにも参加するように、一芸に秀でる者は多芸に通ず。羽生と同世代のプロ棋士・先崎学は麻雀、パチンコ、パチスロ、競馬、競輪に通じている。また文筆家としても知られ、多くの著書をもつ。

『棋士・先崎学の青春ギャンブル回想録』(白夜書房)はそのうちの一冊だ。

10代の半ばに中田功(現八段)に麻雀を教えられ、続いて「おもしろいものがあるよ」とパチスロを教えられる。当時、中田は四段で先崎はまだ三段、すなわち前者はすでにプロ棋士だが、後者は奨励会員(満26歳までに四段にあがれなければ……のあれだ)であった。

先崎は将棋に打ち込んで早く四段にならなければならない身分であるはずだが、新宿歌舞伎町のパチスロ屋に入り浸るようになる。それでも17歳で四段となり、晴れてプロ棋士となるが、すぐに壁にぶちあたる。

思うように勝てずに、パチンコ、パチスロ、おまけに酒にまで呑まれていく。そのときの蟻地獄に落ちてもがき苦しむような心性を自らこう説明している。

これを見たあなたはパチンコをやりたいと思いますか? - YouTube

〈馬鹿、と思われるかもしれない。そのエネルギーをなんで本職にぶつけられないのか、と。だが、そのときは仕方がなかったのだ。勝つ棋士が持つエネルギーには、気負い、自尊心、鬱屈などがついてまわる。私は、それらのエネルギーの燃えカスのような不純物を内面で処理できなかった〉

勝てないことで、自尊心などの燃えカスが心にたまっていく……末井のいうところの「疚(やま)しさ、虚しさ、寂しさ」であろうか。

「(将棋は)パチスロの勝ち負けなどの比ではない。人生を賭けた勝負である」  こうした心情も、競輪好きで知られる伊集院静だと次のようなダンディズムになる。

〈――それしかできなかった…。それだけのことで何ということはない。理屈はないのである〉(『大人の男の遊び方』双葉社)

いずれにせよ、賭け事というのはその人についてまわる業のようなものに思える。業と中毒は紙一重にあるのだろうか。

以上のようにまとめれば、先崎にパチスロを教えた中田は、彼の身のためにならない悪友に思える。しかしそののちも先崎は中田のもとを訪ねる。酒を飲み、麻雀を打ち、そして「チョットだけ将棋を打ってみましょうか」と言われたが、先崎は答えに困った。

〈勝負をすることが、自分にとって何より大切なことだと思っていた人の前で、私が負けるのを見せたくない〉

「勝負をすることが、自分にとって何より大切なこと」。競輪においても伊集院が知らないわけではない。彼は次のようなことを語っている。

〈(競輪は)それこそが真実そのものである。勝ち負けなどの比ではない。その競走場に出向いた人は、おのずからその真実に気が付かされることになる。…誰かがそこで助言してくれるわけでもない。また、そういう場所で他人の顔色を見て「ま、こんなもんか」と自分を納得させるわけにもいかない。人生を賭けた勝負である〉

それでもなお人は賭け事にはまり、その真実を見ようとしない。見ようとしないのはなぜか。「そのときは仕方がなかったのだ」。それにしても説明がつかない。

(編集部ウラウラ部)

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