8党派から多彩な政治家集う 強権とはちょっと違った小沢一郎氏 したたかな戦略性の武村正義氏 政治改革とコメ市場開放 「〝日本のブレア〟が出てくれば政権交代ある」<細川護熙さんのあのころ>

 -1993(平成5)年8月に発足した細川内閣と連立与党には、8党派から多彩な政治家が集いました。まず衆院選後に日本新党と統一会派「さきがけ日本新党」を組んだ新党さきがけでは、同じ熊本の園田博之さん(さきがけ代表幹事)がおられました。

 園田さんは、さきがけ日本新党とは関係無しに、昔から親しくしていました。お父さんの直さん(園田直氏)とは知事選の時の〝園田裁定〟のいきさつもありましたし、天光光さん(園田直氏夫人、元衆院議員)とも親しくさせていただいていましたから。知事時代も園田さんは、国会議員の中で一番良き相談相手でした。

幻に終わった園田博之官房副長官

 細川内閣で官房副長官を誰にするかという時ね、私は園田さんか二階(俊博)さんかと思ってたんですよ。できたらそれでいきたいという話を小沢さん(小沢一郎新生党代表幹事)にも言いました。「ああそれはいいな、二人とも」という返事だったんです。ところが、官房長官になる武村正義さんが来て、さきがけの面倒を全部、鳩山由紀夫さんがみてくれているので、鳩山さんを副長官にしてくれと。

 村山内閣の時ですね。園田さんが細川内閣で官房副長官をしてくれていたら、もっと政権が安定したと思います。国会対策とか、政界とのつながりもそうなんですけど、官僚たちとのつながりがもっとスムーズにいったかもしれませんね。

 -さきがけと日本新党が接近したきっかけは園田さんですか。

 園田さんはもちろんですが、代表の武村さんも知事時代から交流がありましたし、田中秀征さんとも東洋経済だったかな、対談したことで親しくなりました。(「週刊東洋経済」1992年9月12日号)

 さきがけとは統一会派を組み、将来は合流という話だったのですが、ただ難しかったのは、さきがけはコメの開放に反対だったんです。だから崩れちゃったんですよ。日本新党の中にも、さきがけと統一会派を組むのはとんでもないというので辞めちゃった人もいます。ものすごく強い反発がありました。田中秀征さんもコメ開放には強い反対でした。だから私はその件については秀征さんと話しませんでした。

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